三夜の越境
「三夜だけ、自由にしていい」——夫にそう言われた夜、私は何かを決めた。倦怠期の夫婦が選んだ奇妙な取り決めと、夫が選んだ男と過ごした三つの夜。浮気か恋かわからないまま、感情が動いていった記録。
三夜の提案
「三夜だけ、自由にしていい」
夫がそう言ったのは、倦怠期という言葉を二人のあいだで初めて使った夜から、一週間ほど経ったころだった。
倦怠期について夫婦で話し合えること自体、うちはまだ大丈夫な部類なのかもしれない——そう思いながら聞いていたら、夫は続けた。
「誰かと会ってみれば。俺が信頼できる人を選ぶから」
私は夫の横顔を見た。テレビの光が当たっていた。冗談ではなかった。
「浮気、じゃなくて?」
「俺が知っている、ということが前提の話だから。浮気とは少し違う」
三夜。その具体的な数字が、今でも頭に残っている。一夜でもなく、一週間でもなく、三夜。夫がその数字を選んだ理由を、私はまだ聞いていない。
受け入れようと決めたのは、三日後の朝だった。通勤電車の中で、窓の外を見ながら、ふっと思った——行ってみよう。何がわかるかはわからないけれど。
最初の夜
彼の名前は、北村という。
夫の仕事関係の知人で、三歳年下で、二年前に離婚したと聞いた。「変な人じゃないから」という夫の言葉を信じて、私は会うことにした。
待ち合わせは、銀座のイタリアンだった。夫は最初から同席しなかった。「俺がいたら話しにくいだろ」と言っていた。それはそうかもしれなかった。
私のほうが緊張していた。
北村は先に来ていた。テーブルの前に立っていて、私を見て小さく会釈した。三十八歳、と聞いていたが、もう少し若く見えた。背が高くて、声が落ち着いていて、目が涼しかった。
向かい合って席に着いた。メニューを渡された。
「何か苦手なものはありますか」と彼は聞いた。
食べ物の話から始まった。料理の話、ワインの話、最近行った店の話。会話が途切れそうになると、北村は何かを見つけてきた。話題を拾う人だ、と思った。聞き上手なのではなくて、会話の重心のとり方が上手い、という感じだった。
*
前菜が運ばれてきた頃、北村は言った。
「旦那さんから聞いています。三夜、って」
「はい」と私は言った。それ以上、何と言えばいいかわからなかった。
「変な提案だと思いますか?」と彼は聞いた。
「変、ですよね」と私は正直に言った。「夫も変だし、それを受け入れようとしている私も変かな、と」
「でもここに来た」
「来ました」
北村は少し笑った。柔らかい笑い方だった。
「勇気がいりましたか」
「います」と私は言った。「今もあります」
彼は何も言わなかった。ただ、ワインのグラスをゆっくりと回した。責めるでもなく、励ますでもなく、ただそこにいてくれる感じがした。それが不思議と、居心地よかった。
*
食事は二時間ほどで終わった。
店を出て、銀座の夜を二人で歩いた。九月の終わりで、空気が少し涼しくなり始めていた。夫と歩くのとは、何かが違った。緊張とも違う、少し浮遊するような感覚だった。
「倦怠期って」と北村が言った。歩きながら、空を見て。「いつ頃から気づきましたか」
「気づいたというか」と私は考えながら言った。「いつの間にか、夫のことを人として見るのをやめていた、という感じで」
「人として?」
「一緒に暮らしている、という事実の中に溶けてしまって。顔も声も、何かを感じるものじゃなくなっていた。それが悪いことなのか、そうじゃないのか、自分でもよくわからないんですけど」
北村はしばらく黙って歩いた。
「それは」と彼はゆっくり言った。「倦怠期じゃなくて、信頼かもしれないですよ。刺激が安心に変わっただけで」
「そうかな」と私は言った。
「わからないけど。ただ、こうして話してみると——あなたはまだ、ちゃんと言葉を持っている人だと思う」
「言葉を持っている?」
「自分の感覚を言語化できる。それって、まだ動いている証拠だと思うから」
その夜、私たちは何もしなかった。
ホテルには行かなかった。手も触れなかった。銀座駅の改札の前で別れて、私は電車で帰った。夫はリビングで本を読んでいた。「どうだった?」と聞いた。
「普通だったよ」と私は答えた。
嘘ではなかった。
でも眠れなかった。「まだ動いている」という言葉が、夜中じゅう頭の中に残っていた。自分の何が動き始めているのか、自分でもわからないまま朝になった。
それが、最初の夜だった。
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二夜目、三夜目——そして越境の翌朝