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霧島夜子の愛の風景

Short Novel
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一晩だけ、知らない人

霧島 夜子

出張先のホテルバーで、知らない人と一夜を過ごした。それだけのことだった。それだけのことなのに、翌朝、夫に「おはよう」とLINEを送りながら、私は何かが少しだけ変わった気がした。

目次
第一章

バーカウンターの夜

眠れなかった。

大阪での打ち合わせが長引き、ホテルに戻ったのは夜の十時過ぎだった。シャワーを浴びて、ベッドに横になったが、目が冴えていた。東京でなら、夫がソファでテレビを見ている音がして、それが眠りへの合図になる。でも、この部屋は静かすぎた。

十一時頃、私はカードキーを持ってロビー階に降りた。

バーは小さかった。カウンター席が八つと、奥にテーブルが四つ。平日の夜遅いこともあって、客は三人しかいなかった。私は端のスツールに座り、赤ワインを頼んだ。

隣に人が来たのは、それから二十分ほど経ってからだった。

「隣、いいですか」

声が低かった。振り向かなくても、背が高いことが分かるような、空気の動き方だった。

「どうぞ」

ウイスキーのソーダ割りを頼んで、彼は静かにグラスを口に運んだ。話しかけてくる様子はなかった。ただ、バーテンダーと短く二言三言、話した。声のトーンが穏やかで、急いでいる感じがなかった。

私はワインを飲みながら、手元のスマートフォンを見た。夫からのLINEが来ていた。「今日どうだった?」。「まあまあ。もう寝る」と返信した。それだけだった。

この人は誰だろう、と思ったのは、彼がふとバーカウンターのグラスの向こうを眺めた横顔を見たときだった。三十代後半か、四十代前半か。私は知らない人の横顔を、こんなにしばらく見たことがない気がした。
第二章

名前を聞かない夜

会話が始まったのは、私がワインの二杯目を頼んだときだった。

「仕事ですか、大阪」

彼が言った。質問というより、確認するような言い方だった。

「はい。打ち合わせが長くなって」

「私もです」と彼は言った。「明日の朝、東京に戻ります」

同じだった。私も翌朝の新幹線だった。

何を仕事にしているかは聞かなかった。彼も聞いてこなかった。名前も、連絡先も。その夜のバーには、そういう暗黙のルールがあるみたいだった。

話したのは、たわいのないことばかりだった。大阪の夜の話、好きな本の話、眠れない夜の過ごし方。彼はあまり多くを語らない人だったが、私が話すとちゃんと聞いていた。相槌が小さかったが、それが嘘くさくなくて、聞いてもらっている実感があった。

一時間ほど経ったとき、彼がグラスを置いた。

「部屋に戻りませんか。二人で」

はっきりと言った。遠回しにしない言い方だった。

私は少し間を置いた。断るつもりで間を置いたのかもしれない。でも、そうじゃなかった。

私には夫がいる。七年間、浮気もしたことがない。でもその夜、この人の言葉が耳に触れたとき、断る理由を探している自分が、探すのをやめた。

「私の部屋でいいですか」

そう言ったのは私の方だった。自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。

第三章

知らない部屋で

エレベーターの中で、私たちは並んで立った。鏡に映る二人が、不思議なほど自然だった。

部屋に入って、カーテンを引いた。大阪の夜景が、薄く光っていた。

最初に彼が私の肩に手を置いたとき、力が抜けた。強くもなく、乱暴でもなく、ただ、置かれた。その感触が、夫のものとは違った。夫の手は知っている手だ。でもこれは、知らない手だった。

知らないということが、こんなに体に響くとは思っていなかった。

彼は急かさなかった。私が慣れていくのを、ちゃんと待っていた。その辛抱強さが、かえって苦しかった。急いでほしかったわけじゃないけれど、丁寧に扱われるほど、自分が何をしているのかを感じた。

一度、泣きそうになった。悲しくはなかった。何かが溢れてきそうになって、でも溢れなかった。その感覚の名前が分からなかった。

長い夜だった。

窓の外が白み始めた頃、彼は「ありがとう」と言った。その言葉の言い方が、媚びていなかった。ただ、言った。私も「ありがとう」と返した。どちらの「ありがとう」も、本当だった。

彼は自分の部屋に戻った。扉が閉まると、部屋に一人になった。シーツの温度だけが、まだ残っていた。

不思議なことに、罪悪感は後から来なかった。後悔も。あったのはただ——静けさだった。体の中のどこかが、ずっと張り詰めていたものを、少し手放した。
第四章

朝のLINE

シャワーを浴びて、着替えて、コーヒーを淹れた。ホテルの紙コップに入った薄いコーヒーを飲みながら、窓から大阪の朝を見た。空が晴れていた。

スマートフォンを開いた。夫からLINEが来ていた。「おはよう。今日何時に帰る?」

私は一秒だけ画面を見つめた。

「おはよう。昼前には着くと思う」

送信した。すぐに既読がついた。「了解。昼ごはん、何食べたい?」。そう返ってきた。

何食べたい、か。

「何でもいいよ」と返した。

嘘じゃない。本当に何でもよかった。でも、その「何でもいい」の中に、いつもと違う軽さがあった。夫のLINEが、重くなかった。それが不思議だった。

新幹線の中で、ずっと考えていた。昨夜のことが消えたわけじゃない。でも、変わったわけでもない。私には夫がいて、帰る場所がある。それは変わっていない。

変わったのは、もっと小さいことだ。

私はまだ、誰かに触れられると、体が反応するということ。まだ、ちゃんと女でいられるということ。それを、この夜が確認させてくれた。

東京駅に着いて、改札を出たとき、夫からLINEが来た。「もうすぐ着く?」——私は「うん、今出た」と返しながら、なぜか少し笑った。何がおかしいのか分からなかったけれど、悪い笑いじゃなかった。

彼の名前を、私は知らない。彼も私の名前を知らないだろう。

それでいい、と思った。知らないから、ここに置いておける。

大阪の夜は、大阪に置いてきた。

— 了 —