一晩だけ、知らない人
出張先のホテルバーで、知らない人と一夜を過ごした。それだけのことだった。それだけのことなのに、翌朝、夫に「おはよう」とLINEを送りながら、私は何かが少しだけ変わった気がした。
バーカウンターの夜
眠れなかった。
大阪での打ち合わせが長引き、ホテルに戻ったのは夜の十時過ぎだった。シャワーを浴びて、ベッドに横になったが、目が冴えていた。東京でなら、夫がソファでテレビを見ている音がして、それが眠りへの合図になる。でも、この部屋は静かすぎた。
十一時頃、私はカードキーを持ってロビー階に降りた。
バーは小さかった。カウンター席が八つと、奥にテーブルが四つ。平日の夜遅いこともあって、客は三人しかいなかった。私は端のスツールに座り、赤ワインを頼んだ。
隣に人が来たのは、それから二十分ほど経ってからだった。
「隣、いいですか」
声が低かった。振り向かなくても、背が高いことが分かるような、空気の動き方だった。
「どうぞ」
ウイスキーのソーダ割りを頼んで、彼は静かにグラスを口に運んだ。話しかけてくる様子はなかった。ただ、バーテンダーと短く二言三言、話した。声のトーンが穏やかで、急いでいる感じがなかった。
私はワインを飲みながら、手元のスマートフォンを見た。夫からのLINEが来ていた。「今日どうだった?」。「まあまあ。もう寝る」と返信した。それだけだった。
名前を聞かない夜
会話が始まったのは、私がワインの二杯目を頼んだときだった。
「仕事ですか、大阪」
彼が言った。質問というより、確認するような言い方だった。
「はい。打ち合わせが長くなって」
「私もです」と彼は言った。「明日の朝、東京に戻ります」
同じだった。私も翌朝の新幹線だった。
何を仕事にしているかは聞かなかった。彼も聞いてこなかった。名前も、連絡先も。その夜のバーには、そういう暗黙のルールがあるみたいだった。
話したのは、たわいのないことばかりだった。大阪の夜の話、好きな本の話、眠れない夜の過ごし方。彼はあまり多くを語らない人だったが、私が話すとちゃんと聞いていた。相槌が小さかったが、それが嘘くさくなくて、聞いてもらっている実感があった。
一時間ほど経ったとき、彼がグラスを置いた。
「部屋に戻りませんか。二人で」
はっきりと言った。遠回しにしない言い方だった。
私は少し間を置いた。断るつもりで間を置いたのかもしれない。でも、そうじゃなかった。
「私の部屋でいいですか」
そう言ったのは私の方だった。自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。
知らない部屋で
エレベーターの中で、私たちは並んで立った。鏡に映る二人が、不思議なほど自然だった。
部屋に入って、カーテンを引いた。大阪の夜景が、薄く光っていた。
最初に彼が私の肩に手を置いたとき、力が抜けた。強くもなく、乱暴でもなく、ただ、置かれた。その感触が、夫のものとは違った。夫の手は知っている手だ。でもこれは、知らない手だった。
知らないということが、こんなに体に響くとは思っていなかった。
彼は急かさなかった。私が慣れていくのを、ちゃんと待っていた。その辛抱強さが、かえって苦しかった。急いでほしかったわけじゃないけれど、丁寧に扱われるほど、自分が何をしているのかを感じた。
一度、泣きそうになった。悲しくはなかった。何かが溢れてきそうになって、でも溢れなかった。その感覚の名前が分からなかった。
長い夜だった。
窓の外が白み始めた頃、彼は「ありがとう」と言った。その言葉の言い方が、媚びていなかった。ただ、言った。私も「ありがとう」と返した。どちらの「ありがとう」も、本当だった。
彼は自分の部屋に戻った。扉が閉まると、部屋に一人になった。シーツの温度だけが、まだ残っていた。
朝のLINE
シャワーを浴びて、着替えて、コーヒーを淹れた。ホテルの紙コップに入った薄いコーヒーを飲みながら、窓から大阪の朝を見た。空が晴れていた。
スマートフォンを開いた。夫からLINEが来ていた。「おはよう。今日何時に帰る?」
私は一秒だけ画面を見つめた。
「おはよう。昼前には着くと思う」
送信した。すぐに既読がついた。「了解。昼ごはん、何食べたい?」。そう返ってきた。
何食べたい、か。
「何でもいいよ」と返した。
嘘じゃない。本当に何でもよかった。でも、その「何でもいい」の中に、いつもと違う軽さがあった。夫のLINEが、重くなかった。それが不思議だった。
新幹線の中で、ずっと考えていた。昨夜のことが消えたわけじゃない。でも、変わったわけでもない。私には夫がいて、帰る場所がある。それは変わっていない。
変わったのは、もっと小さいことだ。
私はまだ、誰かに触れられると、体が反応するということ。まだ、ちゃんと女でいられるということ。それを、この夜が確認させてくれた。
彼の名前を、私は知らない。彼も私の名前を知らないだろう。
それでいい、と思った。知らないから、ここに置いておける。
大阪の夜は、大阪に置いてきた。