暗証番号
フロントがない。受付がない。タッチパネルに番号を押せば、ドアが開く。その番号を知っているのは、私と涼だけだ。夫の達也は知らない。夫は優しくて、細い。彼は黙っていて、大きい。体が覚えたことは、なかったことにできない——人妻の秘密の記録。
暗証番号
エントランスのドアを押すとき、いつも少し胸がざわつく。
そのざわつきが怖さからくるのか、解放感からくるのか、今もはっきりしない。フロントカウンターがない。受付がない。顔を覚えられる心配がない。タッチパネルに暗証番号を入力すると、電子錠が解除されてドアが開く。それだけで、この部屋に入れる。
暗証番号は涼が取ってくれた。涼がオンラインでチェックインして、私にLINEで送ってくれる。「4729」とか「3851」とか、泊まるたびに違う番号が届く。その番号を知っているのは、私と涼だけだ。夫の達也は知らない。
人妻がアパートメントホテルを選ぶ理由は、いくつかある。
一番は、誰とも顔を合わせなくていいこと。普通のホテルならフロントで名前を告げて、スタッフの目の前でキーを受け取って、エレベーターを待つ。見知らぬ人でも、「この人は今日ここに泊まる」と知られる。それが積み重なると、どこかで誰かと繋がる気がして怖い。
ここは違う。建物に入ってから部屋まで、誰とも目を合わせずに済む。通路を歩いても、誰に何を思われることもない。ただの泊まり客として、静かに存在できる。
人妻には、それが静かに助かる。
もう一つの理由は、台所があることだ。リビングと寝室が分かれていて、小さな台所がついている。冷蔵庫があって、コンロがある。涼は料理ができる。三十一歳の独身で、自炊の習慣がある。ここに来ると、涼がよく何か作ってくれる。ホテルに泊まっているのに、台所から料理の匂いがする。その落差が、私にはいつも少し不思議で、でも居心地がよかった。
今日は私が先に着いた。六階の角部屋。バッグをソファに下ろして、コンビニで買ってきたものを冷蔵庫に入れた。二人分のビールと、チーズ、パスタの材料。今夜は涼が作ると言っていた。
窓から街が見える。十一月の、昨日の雨で洗われた街並み。自転車が走っている。日曜日の昼過ぎの、普通の景色。
私はソファに座って、少しの間、何も考えなかった。
こういう時間が好きだった。誰でもない自分に戻れる時間。達也の妻でも、誰かの娘でも、会社の同僚でもなく、ただ私が、ここにいる。この部屋は私の名前を知らない。私がここに来たことを誰も記録していない。その匿名性が、体から何かをほぐしていく。
バスルームに入って顔を洗った。鏡を見た。今日の私の顔がある。これから涼に会う前の顔だ。達也と朝ごはんを食べた顔と、同じ顔のはずなのに、少し違う気がした。
達也には「友人の家に泊まる」と言って来た。嘘をついた、という感覚はある。でも達也が「嘘をつかれた」と感じるかどうかは、わからない。達也は詳しいことを聞かない。私が言わないことは聞かないと、最初から決めているような人だ。知らない方が楽なのかもしれない。あるいは、知っていて黙っているのかもしれない。七年間一緒にいても、達也の内側はまだよくわからない。
涼と付き合い始めて、もうすぐ二年になる。出会いは共通の知人のいる飲み会だった。隣になって、連絡先を交換して、何ヶ月かLINEが続いて、二人で食事をした。お互いに気持ちがあることを、言葉の前に表情で知った。
涼は背が高くて、手が大きい。最初に気づいたのはそこだった。達也も背は高いけれど、涼の手の大きさは達也とは違った。テーブルに置かれた涼の手を見ながら、なぜかそのことが頭から離れなかった。体のことを意識したわけじゃない。ただ、大きな手だと思った。その手が、後に自分の体に触れることになるとは、そのときはまだ知らなかった。
私が既婚者であることは、最初から伝えた。涼はそれを聞いて、すぐには何も言わなかった。しばらく考えてから、「夜子さんの事情を押しつけたくない。でも、一緒にいたい」と言った。その言い方が、軽くなかった。
達也には話した。涼という名前は言わなかったけれど、大切な人が他にできたということを。達也は最初、黙って聞いていた。「続けるの?」と聞かれて、「続けたい」と言った。達也はしばらく黙ってから、「わかった」と言った。
わかった、で終わる話ではないけれど、達也なりの受け取り方だった。達也は詳しいことを聞かない人だ。私が言わないことは、聞かないと決めているのかもしれない。それが優しさなのか、向き合うことへの怖さなのか、七年間一緒にいてもまだよくわからない。
達也は穏やかな人だ。怒らない。仕事もきちんとしている。私のことを大切にしてくれている、と思う。結婚してよかったと思っている。涼を知った今もそれは変わらない。
でも、体のことだけは——
涼を知る前は、言葉を持っていなかった。言葉にする必要があることだとすら、気づいていなかった。
新婚のころ、達也と初めて体を重ねた夜のことを思い出すことがある。緊張していた。期待していた。でも、終わった後に感じたのは、どこか拍子抜けしたような、言葉にならない感覚だった。達也が悪いわけじゃない。達也は優しかった。でも何か、足りない気がした。何が足りないのか、当時の私にはわからなかった。それが「大きさ」の問題だとは、知らなかった。
七年間、その「何かが足りない感覚」を持ちながら、でもそれを言葉にする方法を持たないまま、達也との夜を過ごしてきた。達也も何も言わなかった。二人とも、それが普通だと思っていたのかもしれない。
涼に出会うまで、私はそれが「普通じゃない」とすら気づいていなかった。
LINEの通知が来た。涼からだった。
「今着いた。上行っていい?」
「どうぞ」と返信した。
しばらくして、ドアの外に足音がした。ロックが解除される音がして、涼が入ってきた。コートを腕にかけて、スーパーの袋を手に持っている。「寒かった」と言いながら、コートをハンガーにかけた。
「先着いてたの?」
「少しだけ」
涼が台所に袋を置いて、私の方へ来た。軽く私の顎を持ち上げて、キスをした。ただいま、のような。おかえり、のような。この部屋でいつもそうする、という感じのキスだった。
涼の手が大きかった。顎を包む指が、達也の指より長い。この手が自分の体に触れるとき何が起きるかを、私はもう知っている。知っているのに、毎回、少しだけ心拍が上がる。
「腹減った」と涼が言い、台所に向かった。
私はその後ろ姿を見ながら、この部屋に流れる時間のことを思った。
ここに来るたびに、私は少しずつ、達也の知らない私になっていく。
——
第二章以降はKindle版で
第三章 体の正直さ
第四章 翌朝の光
第五章 フロントを通らない